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高階時子
「礫」に所属。
折々に心に残った短歌を紹介していきたいと思います。
時々、見ていただければ幸いです。
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2012/05/17 23:57
蝶の眼に見えてわが瞳に見えぬものこの世に在りて闇に入る蝶

              築地正子 『みどりなりけり』 (1997)

前二首の蝶の歌と異なり、掲出歌は文字どおり暗く、厳しい感じを受ける。
その暗さが魅力の一首。
軽やかに、(そう見えるだけかもしれないが)、飛んでいる蝶を見ても、蝶が見ているであろう、自分には感知できない世界を感じ取り、蝶の飛ぶ先に闇を見据える。

この作者は魚や昆虫を詠んでも、自らの生き方と重ね合わせて表現する。
短歌の持つ軽やかなことば遊びの要素は微塵も感じられない。
以前に紹介した寒鮒の一首もそうだった。
 
  ・水桶にひとひ遊ばす寒鮒のしづかにゐるが耐へがたかりし
軽やかさ、柔らかさを拒んでいるかのようで、常に凛としたものが通っている。

読者としてはそれが魅力でもあるが、ちょっとしんどい時もある。
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2012/05/11 23:34
嬉々として言葉は言葉追いかけるみちのくの山蝶ふたつ飛ぶ

               岡部桂一郎 『一点鐘』 (2002)

蝶が二匹ほどもつれ合いながら飛んでいるのを見かけることがある。

白や黄色の小さな蝶が羽をゆらゆらさせて飛んでいるのを見ると、今を精一杯生きて、喜びに溢れているように見える。
羽を小刻みに揺らし、時には自分に話しかけてくるように思えるほど近くに寄ってきたりするからだろうか、蝶の姿はいつも親しく、美しいものとして受け入れられる。
映画やドラマの中で、死んだ人の魂が甦る喩えとして、蝶の姿がクローズアップされることがあるが、いかにもと頷ける。

掲出歌は山の中で二匹の蝶が飛んでいる姿を「言葉」に喩えている。
初句「嬉々として」は、「言葉は言葉追いかける」にも「蝶ふたつ飛ぶ」にも懸かるといってよいだろう。
二匹の蝶がもつれ合って飛んでいる様子は、まさに楽しげに言葉を掛けあっているように思われる。

この作者の歌はいつもどこかぶっきらぼうで、飄々とした味わいがある。

この一首から、以前(2006/5/17)に紹介した次の歌も想起されよう。
 
  ・ちりちりとよろこび深く翅ふりて駅の軒端を黄蝶がゆけり
                         稲葉京子  『沙羅の宿』
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2012/05/06 00:31
蜜吸ひては花のうへにて踏み替ふる蝶の脚ほそしわがまなかひに

       横山未来子 『花の線描』 (2007)

ようやく暖かくなったと思ったら、もう立夏の候だ。
これから夏に向かって日差しが加速して強くなる。

そういえば5月に入ってから、白い羽を揺らしながら蝶が飛んでいるのをよく見かけるようになった。

「花のうへにて踏み替ふる蝶の脚ほそし」--- 花の蜜を吸う蝶の動きを接写して大写ししたかのようだ。
特に「踏み替ふる」が巧い。
花を求めて忙しく飛び回り、見つけると6本の細い足とストロー状の口を巧みに使って蜜を吸う蝶の生態を鋭く細やかに観察している。

結句の「わがまなかひに」--- 「私の眼の前に」は「付けたし」、「言わずもがな」、だろうか?
一読した時、目の前の蝶の姿を詠んでいるのだから、「わがまなかひに」は不要ではないかと思った。
けれども、何度も読み返していると、「わがまなかひに」があることで、静謐さが強く表されていると気がついた。
周りの状況がどのようなものであれ、蝶の動きを見つめている作者は静謐さの中に身を置いている。
蝶の動きに目を止める、この心の静謐さこそが作者の求めているものなのだろう。

作者は身近な昆虫などの生態を描きながら、同時にみずからの繊細なこころを浮かびあがらせる。
次のような、蛍やおたまじゃやくしの歌もある。


  ・息をふきかくれば熾る火のごとく葉を明るませ螢うごかぬ
  
  ・我がこゑに心ともなふときなきか螢飛びわづか遅るるひかり

  ・おたまじやくしふるると昇り浮きゐしが息を抜きたるやうにしづみぬ

掲出歌もそうだが、いずれもやわらかくて、端正な声調が響き合い、短歌の韻律の美しさが沁みてくる。
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集魚灯

2012/04/27 21:46
集魚灯照らして漁(すなど)りする船の影浮かびおり真闇の海に

勝山美智子 『暁の星』 (2012)

作者は海の見える地に住んでいるようだ。
海を詠んだ歌が多い。

集魚灯 --- 「夜間に魚類を誘い集めて捕獲するための灯火」(デジタル大辞泉)
真っ暗な海上に、集魚灯を灯して漁をする船が浮かんでいる。
眼前の情景を詠んでいるだけのように見えて、この一首からは無限の広がりが感じられる。
暗い夜の海に集魚灯を灯して魚を獲る人々の営みが、厳粛な祈りのようにも思えてくる。
「集魚灯」ということばがこの一首にもたらす力は大きい。

海の見えない内陸部に生まれ育ち、今もそこで暮らしている私にとって海は身近な親しいものではない。
近寄りがたいものである。
だから、このような海を詠んだ歌に強く惹かれる。
 

    ・潮満ちて海苔網隠れゆきし海白鷺は身を岩にひそめる
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自転車

2012/04/21 22:05
淀みいる川の真中に獣骨のごとく半身見する自転車

             勝山美智子 『暁の星』 (2012)

自転車でも家電でも人の手を離れ、打ち捨てられた物は寂しい。
歌集『暁の星』には川の中に捨てられた自転車の歌が二首ある。
もう一首は次に挙げる歌。
 
   ・水涸れし川原の底によこたわる自転車ペダル一つ外れて

掲出歌のポイントは放置されて川水に浸かっている自転車を「獣骨」に喩えたことだろう。
自転車は金属でできているので土に還ることはできず、そのままの姿で錆びながら水に浸かっている。
その姿は獣の骨のように生々しい。
まさに生きて動いていたものの残骸なのだ。
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サロンパス

2012/04/16 23:32
靴をぬぎ湿布薬とサロンパス貼りてスリッパの行脚となりぬ

              長井清子 『ごてちゃの花』 (2012)
            
掲出歌だけを読むと、ちょっと状況がわかりにくいが、この一首のすぐ前に次の歌が置かれている。
 
  ・右足の甲が腫れ来て熱持ちてノートルダム寺院歩行困難

作者はベルギーに赴任している息子を訪ね、フランスのパリまで足を伸ばした時のことを連作にまとめている。
せっかくパリまでやってきて、ルーブル美術館やノートルダム寺院など有名な観光地を訪れたのに足を痛めてしまった。
ついにはノートルダム寺院で歩行困難となり、靴を脱いでスリッパを履いて巡ったという。

掲出歌とノートルダム寺院の一首をセットで読むと、思わず吹き出しそうになる。
まさか、パリの街中でサロンパスとスリッパが役に立つとは。

「湿布薬」、「サロンパス」、「スリッパ」、「歩行困難」の語、中でも「サロンパス」、「スリッパ」のカタカナ語がユーモラスな味わいを強めている。
もちろん、パリの「ノートルダム寺院」という場の設定があるからこそ、このユーモアがいっそう活きているのだが。

作者はユーモラスな歌を作ろうと意図しているわけではなく、その時の状況を詠んでみたら自ずからユーモアが生まれた、そんなふうに感じられるところが、なお可笑しい。
その他の作品もどこかしら滑稽で、正直で、よくぞ言ってくれたね、といった感じなのだ。

 
  ・モナリザは大きなホールにただ一点ガードをされて飾られており

  ・オルセーとルーブル美術館巡り来てモネとマネとに親しみ湧きぬ

  ・ユニクロのTシャツを着て見上げいる凱旋門の彫刻たかし

  ・ライン川の流れを見下ろすブドウ畑急な斜面にへばりつきたり

これらの作品でも固有名詞をはじめカタカナ語が活かされている。
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2012/04/12 23:50
退屈もさみしさも無くゆっくりと姑と二人の時間流れる


              長井清子 『ごてちゃの花』 (2012)

歌集のタイトルとなった「ごてちゃの花」とはどんな花だろう。
「ごてちゃ」という音から素朴な目立たない花を想像していたが、そうではなかった。
インターネットで調べてみると、「科名:アカバナ科、属名:クラーキア属、学名:Clarkia amoena、別名:ゴデチア・色待宵草」となっており、待宵草に似た形の色あざやかな花であることがわかった。

歌集巻末の由良琢郎氏の解説によると、作者は夫を72歳で亡くした後、98歳の姑と二人で暮らしているという。
姑を詠んだ歌をもう少し挙げておこう。
   
   ・日に何度ありがとうを言うだろう ありがとうだらけの姑の一日
   ・ポータブルトイレで排便しながらもありがとうを繰り返す姑
   ・きっちりと時計の針は読めるのに午前と午後がいつも無茶苦茶
   ・メモ書きを姑に渡して出かけます春一番の吹く日のゆうべ
   ・留守番をお願いしますと窓際の姑に手をふりウォーキングに出る

老いて衰えていく姑を介護しながら、作者はあくまでも明るい。
作者が姑との日々を詠むと、いつのまにやらユーモアを帯びたものになっている。
「退屈もさみしさも無くゆっくりと」過ぎていく姑との暮らし。
「退屈もさみしさも無く」 --- なかなかこういう心境にはなれないと思うのだが、この歌集の底にはすとんと突き抜けたような明るさが流れている。
思えば嫁と姑という二人の女性の関係も不思議な縁だ。
夫であり、息子である一人の男性を間にして成り立っているだけの、元は他人同士である。
けれども二人を結びつける男性が亡くなった後は、お互いにかけがえのない一人を失った悲しみを共有し、老いてゆく者同士として、支え合って暮らしているのだろう。

この作者の姑を詠んだ歌の明るさが私はとても羨ましい。
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バイエルン国立歌劇場

2012/04/05 23:56
放射線専門家随行バイエルン国立歌劇場日本公演

         今野寿美 『雪占』 (2012)

前回と同じく『雪占』から。
掲出歌は、昨年9月下旬にバイエルン国立歌劇場が日本公演のため来日した際に、放射線専門家が随行したことを詠んでいる。
放射線専門家を連れて来日したのは、もちろん福島第一原発事故があったからである。
放射性物質に汚染された日本行きにあたり、放射線専門家にいっしょに行ってもらうことにしたバイエルン国立歌劇場の人たちの不安の大きさが想像できる。

当時の新聞では、この時、日本公演のメンバー約400人のうち、80人が原発事故を理由に来日を拒否したという。
参加を拒否した団員たちは1カ月間の無給休暇を取り、そのため公演では同歌劇場の補助メンバーや外部の関係者が代わりを務めたことも報道されていた。

このことを詠んだ歌も一連の中にある。
作者はローエングリン」を観に行ったようだ。
 
  ・日本ゆきを拒否しなかつた三百二十人の「ローエングリン」を観にゆく
  ・につぽんを拒みし団員八十名無給休暇をとる一カ月

掲出歌に話を戻すと、「バイエルン」という国立歌劇場の名前(ドイツの州名)以外は漢字の名詞の羅列によって一首が構成されている。
だから、よけいに「バイエルン」というカタカナ名が浮き彫りになり、強い印象を残す。
当時のニュースから切り取った、機智に富んだ一首だ。
連作の中にこういう名詞だけが並んだ歌があるのも楽しい。
(内容は楽しい歌ではないのだが)

漢字の名詞だけを連ねることによって、自分の思いは述べず、バイエルン国立歌劇場来日の事実だけを淡々と表している。


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雪占

2012/03/31 21:01
跳ね駒、種播き爺の雪占(ゆきうら)に謎なくて春 大地励ます

                   今野寿美 『雪占』 (2012)

この歌集のタイトルとなった一首。
掲出歌のすぐ後に、同じく雪占を詠んだ次の一首もある。
 
   ・農村が雪占といふうつくしい心で呼吸してゐた日本

「跳ね駒」とは、雪解けが進むと妙高山の山肌に仔馬が跳ねているような形が見えることを言うそうだ。
同じく「種播き爺」は、御嶽山の残雪が種をまくお爺さんの姿に見えること。
山肌の残雪がこのような形に見えてくると、田植えや種をまく準備をするという。
妙高山や御嶽山が見える地方では、本格的な雪解けは5〜6月頃であり、今の季節よりも遅いが、春の訪れを詠んだ歌として心に残った。

雪占 ---- 山野に消え残った雪の形によって、農作業のめやすにしたり、またその年の豊凶を占うこと。(デジタル大辞泉)
作者は「雪占」という美しいことばをもって春の訪れを表現した。
残雪が跳ね駒や種播き爺の形に見えることは謎ではなく、自然現象であるが、それを「跳ね駒」や「種播き爺」と捉えたのはその地方に暮らす人々の春を待ちわびる思いであり、知恵である。
下句の「謎なくて春 大地励ます」が巧い。
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補陀落島

2012/03/24 00:11
南方のどこかに核の汚染なき補陀落島(ふだらくじま)があるといふ話

             高野公彦 『水行』 (1991)

最後が「話」という語で終わる歌を集めた「新・今昔物語集」と題した一連の中の一首。
この一連には他に次のような歌が並んでいる。
 
  ・ロボットの代理デモ隊とロボットの代理機動隊がもみ合ふ話
  ・晴の日は日光税を、晴の夜は月光税を取られる話
  ・本物がつひに偽物とされるまで偽物が世にはびこる話

「補陀落・普陀洛」(ふだらく)- 日本国語大辞典
({梵}Potalaka の音訳。光明・海島・小花樹と訳す)仏語。インドの南海岸にあり、観音が住むといわれる山。この山の華樹は光明を放つとも、芳香を放つともいい、観音の浄土として崇拝された。補陀落山。 ...

「補陀落渡海」(ふだらくとかい) - 大辞泉
仏教で、補陀落を目指して小舟で海を渡ろうとすること。捨身の行の一。那智勝浦や足摺岬などが出発地として知られる。

作者の巧みなところは「西方浄土」とかではなく、「補陀落島」ということばを使ったことだ。
「補陀落」と「島」を結びつけたのは作者の造語か?
「補陀落渡海」ということばもあるが、「補陀落島」は確実な死を覚悟した捨身行の行き着く果ての島ということになるだろうか。
そうであるならば、死をもって至る果ての島であり、この世にはあり得ない地である。
夢の楽園の島のようでありながら死と結びついている。
「核」が死のイメージと結びついているように。

1991年刊行の歌集『水行』収載なので、今から20年以上も前の作だが、福島第一原発事故が起きた今、読むと、ユーモアと皮肉の中に哀しさ、悔しさがじんわりと効いてくる。

核に汚染されていない地など、地球上にはもうどこにもないのだろう。
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保険

2012/03/17 23:50
昭和五十七年を幻想のごとく思ひて契約せし若き日の保険が今日おちぬ

              上田三四二 『照徑』 (1985)

作者の年譜を見ると、大正12年生まれで、昭和57年には60歳になっている。
(その6年後には病没するのだが)
保険の契約をした時は満期を迎える昭和57年は、はるか彼方にあり、そこに至るまでの歳月を想像もできない。
若い時からコツコツ払い続けた保険が満期になり、ささやかなお金がこれから入ってくるという安堵感はともかく、自分が満期を迎える年齢になったということが信じられない思いなのだ。
作者はそんな思いを「昭和五十七年を幻想のごとく思ひて」と表現している。

60歳を過ぎている読者なら、共感できる一首だろう。
私も30代の終わり頃に入った保険が満期になるという通知を受け取った時はまさに掲出歌のような心境だった。
若い頃は60歳を過ぎた人はみんな老人に見えた。
自分もあのように老いて60歳になるなんて、想像もできなかった。

身体が歳月相応に老いていく時間と、それを受け入れる心の在り様とのギャップにとまどいながら、少しずつ確実に老いていくのだろう。

「昭和五十七年」という具体的に限定された年を置いたことで、読者にとってより親しい、実感できる一首となった。
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春の卵

2012/03/10 23:36
風の街風に逆らひかかへゆく春の卵のふとあたたかし

                雨宮雅子 『昼顔の譜』 (2002)

三月になり春の日差しが感じられるが、まだ風は冷たく、強い日もある。
今頃のような春の一日、マーケットで鶏卵を買って、買物袋に入れて歩いている。
そんな日常の一コマから、こんな一首ができたのかもしれない。

「春の卵」には「春」と「卵」の持つイメージが重なり、生命を孕む力、暖かさが感じられる。
さらにキリスト教の復活祭のイースター・エッグも思い浮かぶだろう。

上句「風の街風に逆らひかかへゆく」には、「風」が二度使われており、逆風の中を歩くことが強調されている。
口ずさんでみると、難解な言葉など一つもなく、ごくありふれた日常の暮らしが普遍性を帯びた歌となって心に沁みる。
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2012/03/02 23:22
使ひ捨てのやうに手荒く棲んでゐる地球さびしく梅咲きにけり

        馬場あき子 『九花』 (2003)

「使ひ捨てのやうに手荒く棲んでゐる地球」 ---- ほんとうにそのとおりだと思う。
あの東日本大震災、それに続く福島第一原発事故からもうすぐ一年が過ぎようとしている。
「使ひ捨てのやうに手荒く棲んでゐる地球」とくれば、今ではすぐさま福島第一原発事故が思い浮かぶ。

処理できない核廃棄物が溜まり続けること、被曝を避けられない原子力発電所現場での労働、これだけを考えても原子力発電はとうてい続けることはできないと思うのだが・・・
(私はこの事故が起きる前は、原発についてほとんど何も知ろうとしていなかった)

梅が咲き、春の訪れを喜びながらも、作者は自然をたいせつにしない私たちの暮らしを憂いている。
この場合、まだまだ寒い早春に小さな花をつける梅を挙げていることも、上句に巧く照応している。
目に見えない放射性物質に汚染された地にも、季が巡れば花々が咲く。
なんという哀しい情景だろう。

「使ひ捨てのやうに手荒く棲んでゐる」は実にわかりやすい、巧みな比喩だ。
都合のよいように使って、使い終わればすぐさま捨ててしまっても無尽蔵にあるかのように、自然に逆らって便利さ、快適さを求める私たち。
(ああ、でも私はパソコンが自由に使える時代に生きていることをラッキーだと思っているのだけれど。病床にあって日々の記録、スケッチや短歌・俳句・評論などを精力的に書き続けた正岡子規にパソコンを見せてあげたいとよく思う。きっと子規は毎日ブログを書いているだろうな)



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子鬼

2012/02/24 23:05
やうやくに宥(ゆる)して月夜に洗ふ髪わらわらと子鬼落ちて散りゆく

                     富小路禎子 『遠き茜』 (2002)

「やうやくに宥して」--- 他人に対して、あるいは自分自身にかもしれないが激しい怒りを鎮めようとしている。
誰しも一度や二度、怒りや悔しさを押さえ難く、自分をもてあましたことがあるだろう。
掲出歌はそんな心を髪に凝縮させて、激しい感情を表そうとしている。

憤怒を鎮めながら月の夜に髪を洗う。
髪の中にはたくさんの子鬼が潜んでいて、髪を洗うとみんな飛び出していく。
子鬼は鎮めようとしている激しい怒りの具象化でもあるだろう。

怒り、髪の毛とくれば、「怒髪天を衝く」が思い浮かぶ。
「怒髪天を衝く」〔史記(藺相如伝)〕激しく怒って髪の毛が逆立ったすさまじい形相。(大辞林)

この一首でも「月夜」の力は偉大なり。
「月夜」があるだけで、一挙に抽象の世界に引き寄せられる。

作者の巧みなところは「やうやくに宥して」としたことで、激しい怒りを表現していることだ。
そして下句「わらわらと子鬼落ちて散りゆく」は、先に記したように怒りを具象化しており、昔話によく登場する、褌をつけた赤鬼や青鬼の姿が浮かび、ユーモラスな感じさえ受ける。
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ミカン、キンカン

2012/02/18 21:20
森ぬらし二月の雨のふるときに幼な子泣くなみかん きんかん

岡部桂一郎  『竹叢』 (2007)

日脚が伸びて、ようやく春の足音が聞こえ始めたが、厳しい寒さが続く二月。
冬至の頃の雨に比べると、寒さは厳しくても二月の雨には明るさがある。
そんな二月の雨(上句)に、泣いている幼子(下句)を登場させる。
「幼な子泣くなみかん きんかん」はどういうこと?
ミカンとキンカンはどちらも橙色・黄色をした柑橘類で、ごくありふれた果物だ。
それに「みかん きんかん」と並べるだけで韻を踏み、リズミカルだ。
けれども、この一首は何を表現しようとしているのか、わからない。
二月の雨に「森ぬらし」という初句をつけることで、雄大な情景、厳しさが感じられるが、その自然に幼子、人の日常の暮らしを対峙させているのだろうか?

「泣かんでもええ。もうじきぬくうなるさかいにな。見てみ。みかんやきんかんはほんまにきれいな色してるなあ」
なぜか、関西弁になってしまったが、掲出歌のおもしろさは幼子に、あるいは自分に「泣くなみかん きんかん」と呼びかけたことにあるようだ。
意味はわからないけれども、一度読むと忘れられない一首。
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死者

2012/02/12 23:08
立春ののちの寒さよ隣家はひと死にてしきり夜をにぎはへり


上田三四二 『照径』 (1985)

立春は2月4日だったが、今もまだ厳しい寒さが続いている。
掲出歌は、ちょうど今頃の寒い季節に近所で人が亡くなった時のことを詠んでいる。

35年前、母が亡くなった時は自宅で葬式をした。
当時は死者がでると隣保総出で、お通夜と葬儀を行った。
必ず一軒に一人は出なければならない、地域共同体の重要な勤めであった。
近所の家の台所を借りて、煮炊きをして何人分もの食事を用意するのは女性たちの役目だった。
葬儀の後は慰労をかねて酒席が設けられた。

掲出歌を読むと、死者のある家に人が集まる賑わいと、それにかかわる飲食のことから、下村槐太の次の俳句を思いだす。
  
  ・死にたれば人来て大根煮きはじむ

今はお通夜も葬儀も葬儀業者が経営する会館や公民館で行われるようになったので、食事の用意をすることもなくなった。

普段は人の出入りの少ない家でも、死者があると急に訪ねる人が多くなり、賑わう。
人が集まることで、悲しみの中に華やいだ空間が生まれる。
そして、人が集まればお茶や食べ物が供される。
食べ物を供し、食べてもらうことが死者の供養にもなると聞いたことがあるが、生きている者はいつでも食べて飲むのである。
寒い夜の死者のいる家の賑わい、この賑わいも数日もたたないうちに元の静けさに戻り、やがて死者のあったことも忘れられていくだろう。
立春を過ぎた寒い夜、すぐ近くの死者のある家の賑わいが、非日常の別世界のことのようにも思われる。


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ゴクラクチョウカ

2012/02/07 23:22
恍たる楽の韻きによりて照らさるる極楽鳥花(ストレリチヤ)に老きざしたり

             雨宮雅子 『熱月』 (1993)

四季折々の草花や果実の姿に、自然の妙というか、よくこんな精妙な造り物が自然界に在ることだと感嘆することがある。
このゴクラクチョウカもその姿・形の異様さ、華麗さに惹きつけられる。
調べてみると、原産地は南アフリカで、植物園などでは温室の中で一年中栽培されている。
家の庭に植えられる一般的な花ではなく、何かの催事の生花用として飾られることが多いようだ。
私がゴクラクチョウカを眼にしたのも花舗やホテルのロビーであった。

極楽鳥と呼ばれている鳥を実際に見たことはないが、名前からして熱帯の楽園にいる色鮮やかな羽を持った美しい姿の鳥を連想する。
ゴクラクチョウカはその鳥に似ていることから漢字では極楽鳥花となり、学名をストレリチア・レギーネという。
「ストレリチア」とも呼ばれている。
作者は漢字「極楽鳥花」としたうえに、わざわざ「ストレリチア」とルビを打っている。
これは、「極楽鳥花」と「ストレリチア」の両方を読者に読んでもらいたいのだろう。
「極楽鳥花」という漢字から楽園にいる華麗なる鳥の姿が浮かび、「ストレリチア」からは異国の風が吹いてくるようだ。

この歌の舞台は静かにBGMが流れている豪華なホテルのロビーか、コンサート会場か?
音楽が流れている場に飾られ、照らされているゴクラクチョウカに作者は「老い」を感じた。
照らされ続けている花の疲れを感じたのだ。
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寒鮒

2012/02/02 23:18
水桶にひとひ遊ばす寒鮒のしづかにゐるが耐へがたかりし

    築地正子 『花綵列島』

寒い日が続いている。
夕方から霙が降りだしたと思ったら、またたくまに辺りがうっすらと白くなった。

寒鮒 --- 「寒中にとれるフナ。肉がしまり、一年中で最も美味」。(大辞林)

家の中に寒鮒のいる水桶を置いている。
鮒はもちろん鳴き声をたてたりしないし、水音もたてない。
まるで存在しないかのように、寒い中、ひっそりと生きている。
作者は鮒の気配を感じつつ、その存在の静かさにたじろぎ、時には耐えがたいような気持ちになる。
水桶の中に鮒がいるというだけで、その水桶も強い存在感を放っている。
食べるために鮒を水桶に入れているのだろうか。
鮒の数は多くて数匹ぐらいか。
小さな魚の存在を全身で感じている作者の孤独が伝わってくる。

「生くる」という動詞をそのままに使った歌が同じ歌集の中にある。

 ・還るなき心を雪と降りいでて無慚なり死ぬ迄生くるといふは
 ・氷の如き冬の檸檬に刃をあてて切なしわれのひとり生くる意味
「死ぬまで生きる」のはあたりまえと言えばあたりまえで、誰でも死ぬまで生きるしかないのだが、作者は生きることを「無慚なり」「切なし」と言い切っている。
その思いは掲出歌にも繋がっているように思われる。
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リンゴ

2012/01/27 21:07
どのあたりまでの一生(ひとよ)かはち切れむばかりの冬の林檎割りたり

               雨宮雅子 『熱月』 (1993)

寒い冬の季節、さくっと歯ごたえのあるリンゴがおいしい。
いろんな種類が出回っているが、酸味が適度にある「ふじ」が一番好きだ。

作者はリンゴを切りながら、今、自分は一生のうちのどのあたりまで生きてきたのだろうかなどと、ふと思った。
紅色の球体であるリンゴは、今、まさにみずみずしく充ち足りた実りの時を迎えている。
三句からの「はち切れむばかりの冬の林檎割りたり」には、自分はもう、このリンゴのような若さに充ち溢れた時は終わったのだという思いが潜んでいるだろう。
その思いと同時に、リンゴを割り食べることで、若くはない自分を励まそうとしている。

同じ時期に出回るミカン、炬燵にあたりながら食べるのが似合いそうなミカンと異なり、リンゴは冷たく澄んだイメージと結びつく。
紅色は暖かいのだが、リンゴとなると、青春、若さの象徴のようで、しかもアダムとイヴの物語、禁断の木の実をも思い浮かべてしまう。

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2012/01/21 23:49
はばたけるやうに来たりし白きものいづ方からの音信か 雪

雨宮雅子 『昼顔の譜』 (2002)

雪や氷の研究で有名な中谷宇吉郎博士の「雪は天からの手紙である」はよく知られているが、掲出歌も雪を「便り、音信」と捉えた美しい一首である。

上句の美しい比喩「はばたけるやうに来たりし白きもの」 ---  降り始めたばかりの、まだ軽くて舞っているかのような雪だ。しんしんと降り積もる前の、もっとも美しい状態の雪だ。
結句で「音信か 雪」と、一字空け、体言止めにして、「雪」をクローズアップする。
この一首を繰り返し読んでいると、平かなと漢字が実に巧く調和しているのがわかる。
一語の名詞として使われている漢字は「音信」と「雪」の二語のみで、あとは「来たりし」「白き」、それに「いづ方」の「方」に使われているが、画数の少ない漢字であり、全体にやわらかいリズムが雪の清らかさと溶け合って、心地よく響く。

私の住んでいる地では、この冬はうっすらと雪が積もった朝が一日あっただけで、それもすぐに溶けてしまった。
雪の多い地で暮らす人々にとっては、積雪は生活を脅かす恐ろしい自然現象でもあるわけだが、ちらちらと舞い降りる薄い花びらのような雪は美しい。
そして、雪はあたり一面を白一色で覆い尽くし、すべてのものを清めてくれるかのようだ。


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受話器

2012/01/17 23:58
月光は受話器をつたひはじめたり越前岬の水仙匂ふ

                葛原妙子 『をがたま』 (1987)
                             
我が家の庭にニホンスイセンが咲いている。
ニホンスイセンは12月〜2月頃の最も寒い時期に小さなラッパ状の花をつける。
そして、いい香りがする。
暖かくなる頃に咲くラッパスイセンよりも厳寒期に咲くニホンスイセンが好きだ。
ニホンスイセンと言えば、兵庫県淡路島、福井県越前岬の水仙郷がよく知られている。

掲出歌では受話器を耳にあてながら、その受話器から月光が伝わってくるのを感じているのだろうか?
下句「越前岬の水仙匂ふ」から、電話で話をしている相手は福井県に住む人だろうか?
その遠い地にある受話器から自分の持っている受話器まで、声と共に月光が流れてくるような気がしたのだろうか?
実際に福井県に住む人と電話で話をしたことから、この一首の想を得たのかどうかは別にして、月の明るい夜、黒い受話器に月光が流れているのを作者は確かに感じたのだ。
そして、月光と共にニホンスイセンの香りも受話器を伝わってくるのである。
読者の目には月光に照らされたニホンスイセンの群落が眼前に広がり始める。
月光にも色があり、ニホンスイセンの花の色と同じような感じがしてくる。

日常に見慣れた事物やありふれた事柄を捉えて提示し、読者に「そうそう、そんなんだよな」と気づかせてくれる歌もおもしろいが、この作者はあり得ないこと、見ることができないようなことを創出してくれる。
だから一首の意味もわかったような、わからないような・・・・場合が多いが、豊かで不可思議なイメージが浮かんでくる。何度も読んでみたくなる。
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美容院

2012/01/10 23:12
ロメオ理髪店二階はジュリエット美容室露台にタオル旗めかせつつ 

          矢後千恵子 『駅長』

「ロミオ(ロメオ)とジュリエット』といえば、かの有名なウィリアム・シェイクスピアの戯曲だ。
抗争を繰り返しているモンタギュー家の一人息子ロミオと、キャピュレット家の一人娘ジュリエットの悲恋の物語である。
若い頃に、オリビア・ハッセーがジュリエットを演じた映画を見たことがある。

掲出歌では、夫婦で理髪店と美容院の店を開いているのだろうか?
1階は理髪店で名前は「ロメオ」、2階はその妻が経営している美容院で、「ジュリエット」だなんて、ほんとうにこんな店があったら楽しいだろうな。
理髪店も美容院も真っ白なタオルをたくさん使うから、外にはいつもタオルが干してある。
「ロメオ」と「ジュリエット」というネーミングの楽しさと、白いタオルの翻る店先、ここにはユーモアと健康な暮らしの輝きがある。

私が3カ月に一度通っている美容院も2階建ての建物の2階にあり、1階は理髪店で、夫婦でそれぞれの店を経営している。
美容院の名前は「ジュリエット」ではないけれど、1階と2階の両方の店から清潔そうないい香りが漂ってきて、階段を昇りながらなにかしら暖かい気持ちになってくる。もちろん白いタオルもたくさん干してある。
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2012/01/05 22:36
やはらかき軀幹をせむるいくすぢの紐ありてこの晴着のをとめ

               上田三四二 『遊行』 (1983)

最近はお正月に晴着を着ている女性をほとんど見かけなくなった。
成人式ではスーツよりも振りそでを着る女性の方が多いようだが。

掲出歌は「街と娘」と小題のついた一連の中の一首。
作者は晴着を着ている女性(若い女性)の体をまるで透視しているかのように、体に締めている紐まで見えるのだろう。
もちろん晴着の下の裸体そのものも。

着物と紐といえば、杉田久女のよく知られた句を思いだす。 

  ・花衣脱ぐやまつはる紐いろいろ

他にも街で出会った若い女性を詠んだ歌がある。
 ・毛皮着てその髪多(さは)につやめけるをみならはいたくけだものくさし
 ・やはらかき若きからだを寄せてゐし行きずりびとは保谷(ほうや)に降りぬ

以前にも、作者のゆきずりの若い女性を詠んだ作品を紹介したが、実はもっと直截に女性の肉体を眺めまわして細やかに詠んだ作品群が『遊行』には多く収録されている。
その名も「身体の領域」と題した一連18首は、若い女性の肉体(裸体)そのものを目の前にして詠んだとしか思えないような官能的な描写が続く。

 ・疾風を押しくるあゆみスカートを濡れたっる布のごとくにまとふ
 ・正座してくるしきばかり肉あつき膝ありおもて伏せたき膝が
 ・膝いだき背ぐくまるときつぶされてつぶされがたき乳か溢れぬ
 ・かきあげてあまれる髪をまく腕(かひな)腋窩の闇をけぶらせながら
 ・輪郭があいまいとなりあぶら身の溶けゆくものを女とぞいふ

『遊行』に収録されている作品のほとんどは、四季折々の植物や自然詠、旅の歌であるので、その中に女性の肉体を集中的に詠んだ歌群が出現すると、そこだけが異様な光を放っているように感じられる。
女性の私から見ると違和感というか、いかにも男性の目線で捉えた女性の肉体という感じがするが、作者は若い女性の肉体への憧憬・執着をどうしてこれほど生々しく細やかに描いたのだろうか?

秋元千恵子氏は三四二のこれらの歌をその著『含羞の人:上田三四二の生涯』で詳しく考察している。
「支えとして常に身近に茂吉を見てきた三四二にとって、この時期の歌い残すべき主題は、リビドー(性欲)にあった。『遊行』から点描した能動的な作品は、こうした三四二が積極的に目覚めさせた創造のエネルギーとしての”視姦”の恩恵である。この三四二の”視姦”を喩えれば、大作をもくろむ画家の、五官を磨いた鋭い眼付きであり、点描した作の一首は、色彩を添え、いのちを与えた素描の一枚、ということが出来る」
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誤植

2011/12/24 22:22
誤植ひとつ見いではかなくゐるゆふべわれみづからの本をとざしぬ

     上田三四二 『遊行』 (1982)

原稿を書き、何度も注意深く校正をして、もうこれで誤植はないだろうと思い、それが刷り上がった時の喜びと緊張。
できたてほやほやの本のページを繰ってみる。
ああっ、誤植があった。
あれほど念入りに調べたのに、校正の時にどうして見つけることができなかったのか。
刷り上がって世に出たばかりの自著に誤植を見つけた時の驚き、落胆、後悔、絶望感が伝わってくる。
作者は誤植を見つけ、思わずその本を閉じてしまった。

短歌には、「かなし」「かなし」「さびし」「はかなし」という形容詞や「あはれ」がよく似合う。
これらの言葉には魔力のようなものがあり、読者は(あるいは作者自身も)その場の雰囲気に酔ってしまう。
だからこそ、心して使わねばならないと思う。
斉藤茂吉の歌にも「あはれ」や「さびし」が、まるで「はやしことば」とでも言いたいぐらいに頻繁に使われているが、それがまた巧く収まり、一首の陰影を濃くしている。

 ・あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨 (斎藤茂吉『あらたま』)
 ・ゆふされば大根の葉にふる時雨 いたく寂しく 降りにけるかも

作者もしばしば「さびし」「かなし」「はかなし」を使う。
では、掲出歌で使われている「はかなく」はどうだろうか?
ここでは「はかなくゐる」としてしまうことによって、誤植を見つけた時の臍をかむ思いが少し弱まりはしないだろうか?

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2011/12/19 23:20
うず巻の生れてほどける水のさま飽かずに立てば人の寄りくる  

                岡部桂一郎 『一点鐘』 (2002)

街川に水が渦巻きながら流れている。
次々と渦を巻き、その渦がほどけて流れていく情景を立ち止まって眺めていると、何かおもしろいことでもあるのかと道行く人が、一人二人と傍にやってきて、同じ方向を見ている。
自分はただ水が渦巻き、流れるのを見ているだけなのに。
ちょっと人を食ったような歌、というか、滑稽、いやいや恐ろしい歌かもしれない。

平穏な日常をありがたく思いながらも、人は変化のない日常を破る異変をひそかに望んでいるのかもしれない。
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ティベッツ

2011/12/14 23:28
ばちあたりのティベッツもつひに昇天しはだか欅のあさぞらに美(は)し
島田修三 『蓬歳断想録』 (2010)

「ティベッツ」は「ウィキペディア」には、次のように記されている。
「ポール・ウォーフィールド・ティベッツ・ジュニア(Paul Warfield Tibbets, Jr。
1915年2月23日 - 2007年11月1日。
第二次世界大戦期のアメリカ陸軍航空隊で最も有名なパイロットの一人である。
1945年8月6日、広島市に原子爆弾「リトルボーイ」を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長であり、アメリカ合衆国では戦争を終わらせた英雄として扱われている」。

世界で最初の原爆投下による被爆国となった日本にとっては「ティベッツ」は忘れられない名前である。
とは言うものの、「ティベッツ」の名は「リトルボーイ」や「エノラ・ゲイ」ほどは知られていないように思う。

「リトルボーイ」は広島に投下された原子爆弾のコードネームだそうだが、よくまあ「おちびちゃん」という、かわいい、それゆえに恐ろしい名前を付けてくれたものだ。

掲出歌ではいきなり、「ティベッツ」に「ばちあたり」を被せたところに作者の面目躍如。
それに加えて「つひに昇天し」と続く。
「つひに」も「ばちあたり」同様に強烈パンチを喰らわしたようなものだ。

作者はティベッツ死去の報を受けて、「原爆投下から62年、奴もとうとうくたばったか。92歳、けっこう長生きしたもんだ」などと思いながら、ケヤキの裸木を眺めている。
澄んだ寒空に聳え立つケヤキの裸木は簡素で美しい。
一首の意味としてはそんな感じになるだろう。
偽悪ぶった表現の中に原爆投下の罪を問うている、というのは深読みだろうか?

手練れな作者はティベッツの「死去」を「昇天」ということばで表している。
「昇天」から思い浮かべるのは「キリスト昇天」であり、「ティベッツ」の名と組み合わせて、いささかの惻隠の情をひそませているのだろうか。

「ティベッツ」死去の翌日(2007年11月2日)の朝日新聞記事を調べてみると次の署名記事があった。
一部を引用すると、
「広島に1945年8月、世界初の原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長だったポール・ティベッツ氏が1日朝、米オハイオ州コロンバスの自宅で老衰のため死去した。92歳だった。友人で元代理人のジェリー・ニューハウス氏が朝日新聞の取材に語った。
 同氏によると、ティベッツ氏は心臓の持病に苦しみ、2カ月前から衰弱していた。原爆投下に批判的な人々の抗議を恐れて葬儀や墓を希望せず、遺灰を海にまいて欲しいと言い残したという。
 ティベッツ氏はイリノイ州クインシーに生まれ、37年陸軍航空隊に入った。原爆開発のマンハッタン計画にかかわり、母の名から爆撃機にエノラ・ゲイと名付けた」。 【ニューヨーク=真鍋弘樹】

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ケヤキ

2011/12/06 22:49
秋もなか空に漂う欅落葉は言葉のごとく人にとびつく
       
              岡部桂一郎 『戸塚閑吟集』 (1988)

落ち葉の季節だ。
ケヤキは30mを越えることもあるという高木の落葉樹。
掲出歌はケヤキの落葉する情景を詠んでいるのだが、一読、奇妙な感じを受ける。
下句「言葉のごとく人にとびつく」の比喩のせいだ。
落ち葉が言葉のように人にとびつくとはどういうことなのか?
作者はいったい何を詠もうとしているのか? 

ケヤキの高い枝から離れた葉が、空中を舞いながら降りてくる。
そのいくつかが人の体に触れることもあるだろう。
実際、軽い軽い一枚の落ち葉が、体に触れようが痛くもかゆくもない。
落ち葉が自分の肩先などに舞い降りて、まるでやさしく語りかけられているようだ、というならわかる。
ところが、ここではやさしいどころか、「とびつく」のだ。
落ち葉に強い意志があるかのように、人に飛びついてくるのだと?
キーワードになるのは「言葉」だ。
言葉の力を良くも悪くも信じているからこそ成った歌だと思う。

同じ歌集に次の一首がある。

 ・とめどなく木の葉散りきていちまいの木の葉顔打つときの呻吟
落ち葉に顔を打たれて呻吟するという。
掲出歌と落葉の場面設定が似ている。そして、一枚の落ち葉に強い力を感じていることも。
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イチョウ

2011/11/30 23:56
金色(こんじき)のちひさき鳥という比喩を踏みつけて歩(ゆ)く銀杏並木路

                宮原望子 『これやこの』 (1996)

掲出歌は、もちろん与謝野晶子のよく知られた次の歌を踏まえて詠まれている。

 ・金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いてふ)散るなり夕日の岡に

中学校だったか? 国語の教科書に与謝野晶子のこの歌が載っており、読んだ途端に鮮やかな金色が眼前に広がり、自然と覚えてしまった。
ボリュームのある大木ならなおさらのこと、イチョウの黄葉が散るさまは、まさに金色の小鳥が飛び交っているようで、実に美しい。
その黄葉に夕日が差しているとなれば、金色はいっそう輝いているだろう。

イチョウはカエデなどに比べると早く色づき、散る時期も早いようだ。
すっくと伸びたイチョウの大木の黄葉の華やかさ、その黄葉が散り始め、やがて木下に散り積り、裸木となる。
芽吹き、緑葉、黄葉、落葉、裸木、いずれの季も美しいが、黄葉の満ち渡った盛りが崩れ始める頃が最も華やぎ、美しい時だと思う。
木にはまだ多くの黄葉が残っているのだが、黄葉の盛りは過ぎて落葉が始まっているという状態である。

掲出歌はイチョウの並木道をその落ち葉を踏みながら歩いている。
今、自分が踏んでいるのは、かの有名な晶子の詠んだ「金色のちひさき鳥のかたち」をしたイチョウの黄葉だ。
作者はあえて「踏みつけて歩く」としているのは、晶子の歌に潜む浪漫的なものを拒み、美しい落ち葉を踏むことに快感を覚えているのだろうか?
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硝子屋

2011/11/25 23:21
硝子屋に立てかけてある硝子板厚みが緑(あを)く道から見ゆる

河野裕子 『蝉声』 (2011)

掲出歌は、「百歳の猫、ムー」と題した、飼い猫を詠んだ一連7首の最後に置かれている。

掲出歌の他には

 ・一匹も子猫を産まずにぼんやりと門外不出のままに百歳
 ・ぼんやりのアホな猫なれど機嫌よし注射打たれてもムーと返事す

飼い猫を詠んだ一連は他にもあるが、そこでは病んだ猫と、同じく病み臥している自分に重点が置かれており、哀しみが滲み出ている。
ほとんどの歌が病にかかわる中で、「百歳の猫、ムー」一連にはほっこりとあたたかい日差しが差しているようだ。

作者が硝子屋の前を通りかかったのは病院に行く途中だったかもしれない。
硝子板が立てかけられて、その厚みが緑色に光っていることに気づいた。、
上句「硝子屋に立てかけてある硝子板」には、元気に働いている人たちへの憧れが潜んでいるのではないだろうか。
とりたてて優れた歌ではないかもしれないが、なにげない情景を詠んでおり、心に残る一首だ。

この一首から、上田三四二の次の一首を思い浮かべた。

 ・人をらぬ畳屋はこよひさしかけの畳に老眼鏡置かれたり 『湧井』
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ラッキョウ

2011/11/19 21:39
らつきようがふいに食ひたしハチマキして走りをりたる夢よりさめぬ

              河野裕子 『蝉声』 (2011)

遺歌集となった『蝉声』には、病のためベッドで臥す時間が多くなり、しだいに食べることも動くこともできなくなって、刻々と死に近づいていく様子が、率直に細やかに詠まれている。

自分もいつかこのような時を迎える日があるだろう。
読んでいるうちに涙がこぼれそうになる。
作者は夫や娘に口述筆記をしてもらい、最期の最期まで短歌を作り続けた。
最期まで短歌を紡ぎ出すことに執念を燃やしたのは、歌人としての矜持、作家魂とも言えるだろうか。
そしてまた、小説や詩、俳句ではなく、短歌型式を選んだ歌人であったことも大きな要因だろう。

歌集『蝉声』には、食べるという根源的な欲求が失われていく哀しみを詠んだ歌が多くある。
掲出歌はその中の一首だ。
作者はラッキョウが大好物で、たぶん自分でもラッキョウ漬けを作っていたにちがいない。
病魔に襲われると、食欲がなくなり、やがて固形物が食べられなくなる。
そして流動食となり、しまいには点滴で命を繋ぐことになる。

好きだったラッキョウをふいに食べたいと思う。 
同じ一連に次の一首もある。
 
 ・砂丘産小粒らつきようの歯ざはりをしばらく思ひ長く瞑目

好きだったラッキョウの歯触り、匂いが甦る。
体力が衰え、もう二度と食べることはないであろう食べ物のあれこれが思われる。
赤や白のハチマキをして運動会で走った時のことを夢に見たのだろうか。
死などを考えることすらなく、ひたすら走った遠い日の運動会。

上句「らつきやうがふいに食ひたし」と、下句「ハチマキして走りたる夢よりさめぬ」の必然性のない連結、アンバランスの面白さは、この歌集においては深い悲しみへと収斂されていくようだ。

その他にも多く収録されている飲食の歌を挙げておこう。

 ・なーんにも食べたくなけれどお粥炊き梅天神さまと唱へつつ啜る

 ・飲食(おんじき)のよろこびもなく臥(こや)る身は汗も出でざりただに平たく

 ・俯きてスープ啜りつつ涙落つ固形物食へなくなりて三月(みつき)は経たり

 ・もの食へず苦しむわれの傍にゐてパンを食べゐる夫あはれなり

 ・食へざる苦、誰にもわからねば歯をみがき眠るほかなし 眠る

 ・食欲ももはや戻らぬ身となれど桶いつぱいの赤飯を炊く

 ・三人をおいて死ぬわけにはいかざると一粒のぶだうをやつとのみこむ

 ・あたたかなコップにぎりて茶をのめり病院の番茶ひと口ふた口

 ・なぜあんなにおいしかつたのだらうどの瓜も熟れて甘やかな瓜の匂ひして

 ・おもゆおかゆスープ混合三食の流動食をやつと半分

 ・飲まず食はずのこのひと月(つき)を生かしくれし950ccの点滴をたのみとなして

 ・一本のアイスキャンディをやつと食む月にやあと言ひ眠らむっとせり

 ・もう一度厨に立ちたし色とはぎれよき茄子の辛子あへを作りたし

 ・持久戦にもちてゆくより他になしミルク半分をめつむりてのむ

 ・枕辺にいのち養ふスープがおかれたりおもゆのみえずスープを少々

 ・食ふことはなぜかかなしい肘つきておいしいねと言ひ食ひたることも

 ・一日に食ひたるものは桃一個スイカひときれ牛乳一杯慎ましきかな

 ・白桃のもはや一個も食ひえざり赤く色移れるがいつまでもあり

 ・断食が今の症状にはよきゆゑに氷ひとかけを音たててかむ
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