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zoom RSS 喜之床二階

<<   作成日時 : 2010/02/12 22:45   >>

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女房とともども臥せる風邪の夜や喜之床二階のやうなる寥(しづ)けさ

             島田修三 『東洋の秋』 (2007)


もう15年ぐらい前になるだろうか、職場の研修で同期だった人たちとの集まりがあり、愛知県犬山市にある明治村を訪ねたことがある。
職場の研修はこの前年に東京で11月の3週間にわたって行われた。
本郷の宿泊先から茗荷谷の研修先まで小一時間かけて歩いて往復した。
それも毎日、地図を片手に異なったルートで通うことにしていた。

おかげで本郷周辺を中心に鴎外や漱石、一葉など明治の作家たちや東京の地名がぐんと親しいものとなった。
そのうえ、滞在中の土・日は鴎外記念館、子規庵、江戸東京博物館、上野の下町風俗資料館、一葉記念館、法真寺での一葉忌(ちょうど滞在期間中の11月23日だった)などに出かけたり、前から行きたかったところを片っ端から訪ねて歩いた。
そんなこともあり、研修仲間に再会できる喜びと同時に、明治村で明治時代の建物をぜひとも見ておきたかった。

この明治村に、掲出歌の「喜之床」もあった。
想像していたよりもずっと小さな家だった。
「喜之床」は理髪店で、その二階を借りて、石川啄木が母と妻節子、長女京子と共に暮らしていた。

だから、「喜之床」= 石川啄木 = 結核 = 夭折(享年27歳)というイメージが浮かんでくる。
貧しい暮らしの中で、啄木だけでなく、妻節子も病気がちだった。
夫婦揃って病床に臥すことも多かった。

掲出歌のおもしろさは、なんといっても啄木の暮らしていた「喜之床」を抽出していることだろう。

夫婦ともに風邪をひいて寝込んでいるときに、下句「喜之床二階のやうな寥(しづ)けさ」と言ってみたのである。
この場合は自らを啄木になぞらえてみたいのではなく、夫婦ともに病床にあるわびしさに、ふと、啄木の短い生涯が思われたのだろう。

しづけさに寂寥の「寥」をあてている。


「喜之床」については、明治村公式ホームページの「本郷喜之床」より引用しておきたい。

「本郷喜之床
旧所在地 東京都文京区本郷 建設年代 明治末年(1910)頃

 この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。
啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。
明治43年9月にはそこに本籍を移し、10月には長男真一が生まれたが間もなく夭折した。
そして12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。
それはまた明治の暗黒事件として啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもある。
その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移った。
明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである。
この建物は明治末年を遡り得ないと思われる。江戸の伝統を伝える二階建の町家の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。」


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